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- 一町目(近世~近代)とは
「一町目(近世~近代)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
- 一町目(近世~近代)
江戸期~現在の町名松屋町通出水下ルの町聚楽第の境域では,南外郭の外濠(天秤濠)にあたる寛永14年洛中絵図には「松屋丁壱丁目」と記される町名は聚楽第南端と考えられ...
[最終更新日:2009-03-01/JLogosid:7373836]
関連項目:
赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
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一町目(近世~近代) 江戸期~現在の町名江戸期は相川の1町壱丁目・壱町目・一丁目とも書いた相川之図(佐渡志)では町並みは南北に続き,南は江戸沢町,橋を経て南は二町目に通じる東は一町目裏町,西は一町目浜町に接する慶長8年相川港ができ十分一役所が置かれ,寛永6年に町並みが整備された元禄7年検地帳では屋敷7反余,屋敷数は西側13・東側15,名請人28相川町々書上では町並み76間余,町屋敷7反余留木納屋が2棟あったが,宝暦3年一町目浜町に移転文政9年墨引帳では竈数47うち商人10明治6年一町目裏町と合わせた人口452同22年相川町に所属 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
一町目(近世~近代) 江戸期~現在の町名大宮通椹木町下ルの町町名は大宮通の,丸太町通から北1町目にあたることによる(坊目誌)寛永14年洛中絵図には「大宮壱丁目」と記されるただし,「三町め」(京雀ほか)という称も併行して使われている江戸期は聚楽組の大宮組明治2年の町組改正から上京【かみぎよう】17番組,同5年第19区と改称,同25年第15学区に編成明治12年上京区一町目,同22年京都市上京区一町目となり現在に至る... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」